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木村長門守重成~4


 木村長門守重成~4

  生きていく上で学問よりも武芸よりもだいじなものは、堪忍だぞ

 明くる慶長20年(1615)いよいよ大坂夏の陣が始まった。5月6日、白妙と最後の別れを交わした木村重成は、東大阪の若江の戦いに出陣した。緒戦は藤堂軍を打ち負かした重成勢だったが、やがて井伊軍に銃撃されたあと突撃を許した。そして奮戦むなしく、ついに討死したのだった。時に21歳とも、23歳とも言われる美丈夫だった。

 その身に何カ所も深手を負って動くことが出来なくなった重成に対し、井伊家の家臣である安藤長三郎が挑んできたが、「まあ待て」と制止し「そなたに首をくれてやるから、手柄にせよ」と、そのまま抵抗することなく討たせてやったとのことである。ほかに井伊の部将・庵原朝昌が討ち取った首を、安藤長三郎が譲り受けたとの説もある。

 重成が合戦前に姉婿に宛てた書状には、家康が何度も使いをよこすが、自分に二心(ふたごころ)はないこと、姉にはうまく言い訳をしてほしいことなどが書かれているそうだ。すでに覚悟を決めていたのだろう。合戦のあとで家康が首級を検分したとき、その兜には香が炊き込められていたという。別れの時に白妙が炊き込めたものだろうか?安藤長三郎は密かに重成の首級を持ち帰り、自家の菩提寺宗安寺滋賀県彦根市)に懇ろに葬ったとのことで、重成の首塚だという。また大阪中之島公園にも重成の表忠碑が建てられている。
 
 重成と別れを告げたあとの白妙は即座に自害して果てた。重成に心置きなく最後の奉公をさせるためだったという。しかし、その白妙とは実際には青柳のことであり、そのときの青柳は重成の子を身ごもっていた。そのため近江の親族のもとに身を隠し、一人の男子を出産した。そして一年後の重成の命日に自害したようにも伝えている。その重成の子の名は
馬淵源左衛門だといわれているが、子孫の以後の消息などは、ようとして知れない。


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(おわり)